Newsletter Volume 30, Number 3, 2015

アドメサークル

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日本の薬物動態研究組織(12)
ポストドク研究者に助けられて32年(1)

National Institute of Environmental Health Sciences,
National Institutes of Health
根岸正彦

 National Institute of Environmental Health Sciences(以下,NIEHS)はノースカロライナ州,リサーチトライアングルパークに位置するNational Institutes of Health(以下,NIH)に属する研究所です.私は1983年以来,NIEHSで研究グループを主宰し,32年間に渡って研究を続けて来ました.

 研究は研究する人の性格,人生観がそのままに反映します.私は敗戦直前の1945年7月(昭和20年)に生まれましたが,その年にDNAが遺伝子の本体である事が証明され,そして10年後には遺伝子の2重螺旋構造が決まりました.又1957年には初めて人口衛星スプートニックが軌道に乗ったなど,戦後の貧しい時代ではありましたが,若者が科学に惹かれる環境が熟していました.ところで,“苦学生”はもう死語でしょうか.私は中学,工業高校,薬大と苦学生でしたが,その節目節目に人の情けを受け,1972年に大村恒雄先生 (当時,大阪大学,蛋白質研究所,佐藤 了先生の研究室)の御指導で学位を取得させて頂きました.佐藤,大村両先生は当時の生化学分野のトップを走る世界的に有名な研究者で有りました.同時に院生,弟子の教育,成長を大切にされる恩師でも有りました.

 今では“恩師,弟子”も死語となっているのでしょうか.研究室配属が決まってから,佐藤先生に“結婚してもよいですか”と許しを請うた事が有りました.御返事は“結婚は個人の問題です.ただ結婚を理由にした言い訳はいけません”でした.私は院生一年目の半ばで特発性自然気胸を患い,学術用患者として無料で手術を受けさせて頂きました.前後一年近くの療養生活を余儀なくされましたが,この時佐藤先生と研究室の皆様には精神,財政の両面から支えて頂きました.私は最悪の院生でしたが,先生方の御指導,御鞭撻を得られた事は私にとって最大の幸運でした.“もし小保方晴子さんがこの様な先生を持っていたら”と思っています.もしこの様な先生が彼女の周りにおられたら.彼女一人を犠牲にする事でしか結論を出せない無能を曝け出す事も無かったとも思います.学位取得後4年間,関西医科大学 第一生理学教室の助手として田代裕先生の御指導を賜りました.田代先生は分子細胞学の分野で世界的な研究をされていました.私は先生の研究対象の選び方,攻め方等から多くのことを学ばせて頂きました.

 当時(60年代)は学内に“大学紛争”,学外に“ベトナム戦争”と学生のエネルギーが噴出した時代でも有りました.今,“根岸君がアメリカに永住とは”と批判されると反論出来ない自分がいますが,この時代から受けた影響は人生の大きな糧にも成っています.

 さて1976年7月,私はニューヨーク大学医学部のDavid Sabatini先生の研究室でのポストドク研究の為に妻,娘二人の一家を引き連れて,建国200年祭で高揚するニューヨーク市に着きました.この当時は日本円の価値は1ドルが304円でしたので,日本での貯金を使い切って買ったドルもアパート代を支払ったら全部無くなりました.年俸は1万ドルでした.”マクドナルドでの食事では一人一人にハンバーガーを買い,一つのコークとフレンチフライを分け合う“と言う“生活保護レベル“暮らしでした.当時Yale Universityに留学されていた伊藤明夫さん(元九州大学理学部教授)が私達を訪れた際に一人一人にハンバーガー,コークとフレンチフライを買って頂き,娘達が喜んだのを覚えています.そして,随分後の事ですが,川尻要さん(元埼玉ガンセンター生化学部 部長)がNIEHSでの研究を終えて帰国する際に私の子供達を夕食に招待してくれましたが,子供達の希望はマクダーノでした.その後の私の39年に渡るアメリカ生活はこのような貧困生活から始まりました.

 1978年1月にメリーランド州,ベセスダ市に広大なキャンパスを持つNIHに移り,Daniel Nebert先生の下で5年間ポストドク研究を続けました.1970年代後半,それまで一専門分野に限られて使われていた遺伝子操作が,どの分野の研究者にも使える様に成って来ました.NIHではチトクロームP450(CYP)mRNAのcDNAクローン化に携わりました.新しい実験技術の導入に遭遇した研究者は職を得る機会が増えます.1983年7月,私はNIEHSに研究グループを持つ事になり, アメリカに残る事を決めました.この時は未だ関西医大に籍が有りましたので田代先生には大変な御迷惑をお掛けする事に成りました.それでも先生は“どうしょうも無く困った時は帰って来なさい.ポジションは残して置きますから”と送り出して下さいました.何時でしょうかアメリカに来られた大村先生に“しんどい”と泣きついた事が有りました.その時先生が私におっしゃられた言葉は“若い人に助けて貰いなさい”でした.振り返ると,私の研究は正に“ポストドク研究者に助けられた32年”でした.

 大村先生は“研究とは”を明快に書いておられますので,ここに引用させていただきます(図1).“画家が作画対象から特徴を抽出するのと研究者が生命現象のような複雑な研究対象の本質を見抜くのとは似た才能かも知れません.”“僅かな線だけで人物の特徴をつかんだ似顔絵を描き挙げるような研究が出来れば素晴らしいことだと思います.”思い出してください,“Cytochrome P450 (CYP)は2本の波線(spectra)で発見され1),1本の波線で活性が決まった2).”事を.この様な研究の夢を見ながらの32年間でしたし,もう暫く夢を見続けたいと思っています.

 次回は研究室と研究について,ポストドクとの関わり合いの中で話させて頂きます.

謝辞

 本稿の校正にあたりご助言くださいました,東北薬科大学薬学部教授 永田 清先生 に感謝申し上げます.

文献

  1. Omura, T., and Sato, R.: The carbon monoxide-binding pigment of liver microsomes. I. evidence for its hemoprotein nature. J. Biol. Chem., 239: 2370-2378 (1964).
  2. Estabrook, R. W., Cooper, D. Y. and Rosenthal, O.: The light reversible carbon monoxide inhibition of the steroid C21-hydroxylase system of the adrenal cortex. Biochem. Z., 338: 741-755 (1963).

図1

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エピローグ:この似顔絵は1991年8月にモスコウで”7th International Conference on Biochemistry and Biophysics of Cytochrome P-450″が開催された時,主催者のArchakov博士が記念の品として画家を呼んで描かせてくれたものです.似顔絵画家としては有名な人だったようですが,僅か5分くらい椅子に座らされている間に手際よく描き上げたのには感心させられました.その時に考えたのですが,画家が作画対象から特徴を抽出するのと研究者が生命現象のような複雑な研究対象の本質を見抜くのとは似た才能かも知れません.複雑な生命現象を前にした時,その現象を解明するために何を研究するかの判断が研究の成否を決定します.もちろん,先駆者として大筋を解明する研究者だけでなく入念に細部を仕上げる研究者も必要ですが,僅かな線だけで人物の特徴をつかんだ似顔絵を描き上げるような研究ができれば素晴らしいことだと思います.

転載元

平成6年4月1日発行 大村恒雄教授退官記念誌
発行 九州大学大学院医学系研究科分子生命科学系専攻 機能高分子設計学講座
編集 大村研出身者の会