Newsletter Volume 30, Number 3, 2015

若者へのメッセージ

考えたこと,気づいたこと(その1)

東京薬科大学名誉教授
粟津莊司

 薬物動態誌のニュースレターから「若者へのメッセージ」の原稿を依頼されました.どのようなことをお望みなのかと依頼メールに添付された文書を読むと,動態研究に閉塞感が見られる.このような閉塞感をブレークスルーするヒントが得られるようなものが欲しいということでした.ヒントを出すなどという大それたことを今更するのは,賞味期限切れの私にはいささか時期外れと思いますが,それよりも驚いたのは「閉塞感がある」という言葉でした.私は動態学会が会員2000名を超える学会に成長し,学会誌もDMPKと名を変えて英文となり,IFも獲得してその点数も順調に伸び,更にはインターネット対応も立派と思っているので,どこに閉塞感などがあるのかと戸惑いました.しかしよく考えてみると,私のように,かつて「薬物動態」という言葉もなく,薬学の学部レベルの講義ではほとんど語られるようなことが無かった時代から今日の現状を見る者には,時代は変わった,よくぞここまでという感慨の方が先行し,今現在から将来を見る若い人々とは視点が違うのは当然なのだろうと思い至りました.過去から現在までを眺めるものと,現在から将来を見通そうとする者との違いなのでしょう.そうであるからには,私が経験し,その時に何を考えたか,考えなかったか,気が付かなかったかなどを書くことは,後講釈の誹りを免れないとしても,ヒントへのヒント程度にはお役に立つかもしれないと気を取り直して書くことにしました.なお,実は動態誌のニュースレターに「薬物動態研究事始め(5)」を書いたことがあります(DMPK 22 (5), October, 2007)ので,結局はそれと同じことを書いてしまうと思います.と言う理由で今回の事をお断りすれば良かったと思いますが,お引き受けする時にはこの事を思い浮かびませんでした.同じようなことを書いているところが多いと笑われるでしょうが,覚悟しています.お許しください.

大学院時代からポスドクに至るまで

 私は1956年に東大医学部薬学科(当時は学部ではなかった)を卒業してそのまま大学院に進みました.所属は製剤学教室(野上教授,長谷川助教授,池田助手)(以下,敬称,役職名などを省略)でした.製剤学教室は戦後できた若い教室で,その方向性も定かではなく,「製剤学とは何ぞや」などという正に青臭い議論をしばしば行ったり,逆に「俺がやっているのが製剤学だ」というような気持ちも持てる時代でした.そういう意味では,何か頼りない気はするものの,閉塞感とは無縁とも言えた時代でした.もはや「戦後ではない」という言葉が1956年の経済企画庁の経済白書に書かれ,それが流行語となる時代で,閉塞感などという言葉は聞いたことがありませんでした.現在の若い方が閉塞感を感じるならば,それは時代の風潮,方向性がもたらす結果なので,決して薬物動態学固有の問題ではないでしょう.今を大事にしていれば,そのうちに気が付いたら全く違う立ち位置にいるということになると思います.

 最初のテーマは散剤の安定性(アスピリンをモデル)でしたが,実験方法の設定がうまくできずやめました.この時には仲井にお世話になりましたが,その後もいろいろと面倒を見ていただいています.散剤では駄目なので,仕方なく水溶液系の薬の分解を扱いました.野上の「製剤の安定性・安定化」というテーマの中に入るわけですが,この時に反応速度論あるいはChemical Kinetics を勉強しました.池田から英文の単行本2冊を教えてもらい,丸善でその本を購入して勉強したことを覚えています.修士課程では加水分解とpHの関係を研究しましたが,オリジナリティは低いと思いました.博士課程では加水分解の安定化に注力しました.薬の安定化の方法として,酸化なら,阻害剤を入れる,酸素との接触を断つ,光分解なら遮光するなどの方法がありますが,水溶液系での加水分解では,原因である水を無くすことはできないからちょっと方法が見当たりません.その領域で何かポジティブな結果を出せれば学位に値するのではないかと自分で勝手に考えました.手品の種は界面活性剤の利用でした.界面活性剤のミセル中に薬を取り込めば,ミクロ的には水を遮断することになるから加水分解速度は低下する(つまり安定化する)だろうと考えたわけです.今にして思えば,テーマは大きいが発想は貧弱だったと思っています.それでも,こわごわ始めた実験で確かに分解速度が低下しているというデータを得た時には,これで学位は何とかなると思い嬉しかったことを忘れません.分解条件を変えたり,活性剤を変えたりして,何とか研究を仕上げ,学位をいただきました.条件によってはかえって分解が促進されることもあり,驚くと共にその機構も推察しました.あのまま行けば,多分,活性剤を利用した剤形研究に進み,リポソームか乳剤系薬剤の安定性研究,ことによるとこれら製剤使用時の薬の体内動態研究へと進んでいったのではないかと思っていますが,実際にはそうはなっていません.

 学位(薬学博士)をいただくと同じころに東大病院薬剤部に職を得ました.研究と同時に職員としての仕事をしましたが,その間にポスドクとして米国に行ってみたいと考えました.その頃の主体的関心事は加水分解でしたから,加水分解を機構的に研究しているBender(Northwestern大)に手紙(メールではない.レターです)を出しポスドクの可能性を尋ねたところ,自分のところは空きがないが,my former students のシカゴ大のKaiserとPrincetonの〇〇が探しているから,聞いてみたらという返事をもらいました.この二人がどういう仕事をしているか碌に調べもしないで(ひどい話です),さっそく手紙を出したところ,Kaiserからは単純にOK,〇〇からは半年後ならという返事をもらったので,Kaiserに決めました.薬剤部から了承を得てから何回かの手紙のやりとりの後,Kaiserから具体的な日程を書いたものをもらいましたが,最後に looking forward to seeing you soon と書かれているのを読んで,こういう言い方があるのか,それにしてもto の後に ing とは何故,と思いました.英語力不足の見本です. 

 といういきさつを経て1964年の8月にシカゴに家族(妻と長男)ともども行きました.

シカゴ大学での研究

 その頃,シカゴというと日本ではあまり良いイメージがありませんでした.ことに50年も前では,アルカポネの町のイメージが強く,そんな所へ行って大丈夫かと心配でした.先輩に聞くと,危ない所へ行かなければ大丈夫というようなご返事をいただき,何か宙ぶらりんの気持ちのまま出かけました.住居を探すのにアパートの建物に入る時には先ず入り口のボタンを押して内部を呼び出し,用件を言って内部からの開錠の知らせのブザーを待つというプロセスを経るのには驚くと同時に,こんなに用心するとは何と物騒な所へ来たものだと心配になりました.しかし段々慣れて来ると,このように守られているのだ,だから安心なのだとの感覚に変わりました.現在の日本でも一寸したマンションの入り口では,先ずブザーを鳴らして訪問をしらせて開錠してもらうのが一般ですから,怖い象徴がいつの間にか安全の象徴,ステイタスの象徴になっています.ものごとの受け取り方は時とともに変化するものだとの感を深くします.

 研究室(Department of Chemistry, University of Chicago)では主として加水分解酵素の分解機構(作用部位の構造)を研究していました.Kaiserは若い研究者で私よりも若いのですが,飛び級の連続で超スピード進学しHavardからPhDを得たという人でした.さぞかし,プッシュプッシュの連続で激しく仕事をする人かと,半ば期待し,半ば困ったと思っていましたが,心配は杞憂.おだやかな人柄で,研究室にもあまり顔を出さず,あえばニコニコして朝なら Hi Good morning. How’s your research going?などとお愛想を言うだけでした.与えられた研究はCarboxypeptidaseの加水分解機構と言うものでしたが,実際はこの酵素の基質濃度を変えて反応させると,基質の高濃度側で基質阻害が起こる.その阻害作用の解析というもので,酵素キネティクスの一種でした.解析そのものは型通りに速度vs濃度の関係を直線化してやればよいのですが,これでは面白くない.これにあの方法が使えないかと思いつきました.あの方法とは,大学院時代に研究室を同じくした花野が経皮吸収データの解析に使用していたDeming の方法いうというものです.これを書いた本はW.E. Deming “Statistical Adjustment of Data” 邦訳「推計学によるデータのまとめ方(森口繁一訳,岩波書店)」というもので,花野がこれをどのように使用したのか,聞いた記憶はあります.あまり理解できなかったのですが,何となく面白そうだと感じて,一度は使ってみたい,勉強してみたいとその頃から思っていました. その方法こそ,このキネティクスに使えるだろうと思いました.確か計算が面倒だという話を聞いていましたが,それこそぴったりだと思ったわけです.大型コンピュータと呼ばれるものが,大学や研究所にたいてい一台だけが設置され,一般研究者にも使えるようになった時代,コンピュータ利用の普及幕開けの時でした.幸いシカゴ大のコンピュータは研究室の直ぐそばに位置するから,使いやすいだろうとも考えました.全くの直感で決心をして,日本からDeming の本の邦訳を送ってもらうと同時に,コンピュータプログラム(FORTRAN)の勉強を始めました.その頃,日本では教科書と呼ばれる本は未だなかったと思います.米国ではFORTRAN PRIMER と言う本が大学のブックストアーには山積みになって売られていました.日米の差を感じました.Kaiser に許可をもらい計算機利用を始めました.今から思えば,それは非線形最小二乗法によるデータ当てはめ,もしくはパラメータの推定に属する方法ですが,その当時はそのような名前も知らず(無かったと思います),指導者もなく,相談相手もほとんどいない環境で始めました.一番困ったのは計算の途中でパラメータの補正数値を求めるのに必要な連立方程式を解くプログラムでした.当面必要なのは4元の連立方程式だったので,頑張れば4元に特化したプログラムなら作れないことも無いでしょうが,どうせ作るならパラメータの数には特化しないものを作りたい,そういうサブルーチンはあるはずと色々探しました.結局,そういうことならミスター〇〇(名前を忘れました)に聞けば分かるはず,と院生に言われて,尋ねて行きました.親切に対応してくれましたが,ともかくこれを使えと機械語で書いた10枚ほどのカードセットを渡されました.この使用法はこれこれの数値を〇〇の形式で書いて入れればよいと言われましたが,何しろ対象は機械語で書かれたプログラムですから,何がどうなっているか全然分かりません.ともかく闇雲に言われたとおりにやってみました.成功しました.今考えると,よくミスター〇〇の言うことを間違えずに聞き取れたと我乍ら感心します.ともかくこれで自分が満足する形で結果をKaiserに渡すことができました.このほかには酵素中の反応基を化学修飾したり,Carboxypeptidaseに含まれる亜鉛を他の金属に置換したりして,それらの活性を調べることもしました.結果は出ましたが,どうも期待したほどのものではなかったようです.結局,酵素キネティクスの結果のみが帰国後にJACSに発表されました.

英語の勉強

 今や科学やビジネスを行うに当たっての必須道具となっている英語について一言.
 私の英語が飛躍的に進歩もしくは変質したのに三つの時期があったと思います.一つは受験時代で,これは誰しも経験することだから多言は不要でしょう.ただ私の場合は何しろ古いことだから参考書も古いものです.練習問題には旧制高校の入試問題が沢山ついていました.今更,無くなった学校の入試問題をやってもなーとため息が出ました.ことにひどいのは英作問題で「修学旅行で満洲へ行った時に…」などと言う文章を読むと「こんな問題はやる必要なし」と勝手にスキップしました.ともかく古い本で勉強しましたが,本文の内容は良かったと思っています.ただ何か英文のパターンなどが現在の文章と少し違っていたのではないかと今思いますが,このことについては後述します.

 次は大学院時代に初めて英語の投稿論文を書いた時でした.修士の研究内容を発表する段階で長谷川から「英文で書かなければ駄目.雑誌はブル(薬学会の英文誌;現在のChemical (もしくは)Biological and Pharmaceutical Bulletin)」ときつく言われました.日頃温厚な方がこの時は絶対というような雰囲気でした.まだ研究の厳しさ,発表の大事さを知らない時期でしたから,「何でそんな面倒な」と言う気持ちと「やっぱりそうか.よし書くぞ」の気持ちが半々だったような気がします.さらに長谷川から「英語の論文を書くにはタイプライターで書く必要がある.それにはタイプライターで書く練習が必要だ.練習にはこの本がいいよ」と薄いパンフレットを渡されました.最初はttt,fffなどと打つ練習から始めましたが,その練習についても「こういうことは集中が大事だから,一週間はタイプだけをやりなさい.実験などしない」と言われて驚きましたが,忠実に練習しました.ただ一週間と言うのは長すぎて飽きてしまい,数字や記号(?,ハイフン,括弧など)は必要な時に練習すればいいやと勝手に決めて4,5日で練習をやめて本文を書くことを始めました.そのせいでしょうかいまだに数字や記号の入力は,キーを見ながらでないと打てません.やはり「基礎は大事.そして基礎は初めにしっかり習う」ということを時々思い出しています.

 ともかく論文を書きました.書いていると,「〇〇であることが分かった,見出した」などと言う文章がどうしても it is found that … と言う形になり,それ以外に書けない.同じ文体ばかり続くと,何か幼稚な感じは免れません.これをどうするか今もって難しいことですが,当時は何か変だなーと思うばかりでした.

 そして米国,まさに英語の本場に来て,実際の英語に接すると,違う,全然違うことを体験しました.発音(スピーキング)も聞こえ方(ヒアリング)も日本で読んだり聞いたりしたのとでは全然違うことを実感しました.それにより随分と私の英語は修正されたと思っています.ただし,いまだに全然だめですが.

 実例を言い出すときりがありませんが,実験室で用いられる言葉をいくつか書きます.

 チロシン が タイロシン
  太郎さん(たろさん)と聞こえて困りました.
 ベンゼン が ベンジーン
  では炭化水素のベンジンはと聞いたらベンザイン

 RとLの発音が日本人は出来ない,下手だとよく聞きますが,実際に赤のボールペンが必要となり,そのありかを近くにいた院生に尋ねた時,何回言っても相手は怪訝な顔をしている.最後に Oh you mean RED(アール イー ディー)red. と言われて情けない思いをしました.

 またもっと長い言葉でしばしば Trouble is (that)…とかMy feeling is (that)…という言い方に接しました.私はこういう時には It is trouble that という言い方をすると習ったような気がするのですが,今では確かめようもありません.何か英語教育に欠けているものがあったような気がしています. もし思い違いでしたら,英語教育の専門家には申し訳ありません.誤ります.

 中学以来20年近くも英語に接し一応の勉強をしたのに,このような初歩的なことに苦労し,少しずつ修正して行くわけですが,次のようなことを言われたことがあります.

 研究室に香港から来た院生がいました.ある時,有機酸を日本では英語で言うこともあるし,漢字で書くこともよくある.例えば蟻酸,酢酸,酪酸,安息香酸など.香港でも同じように書きますか.という問いに,勿論あると言って,かなり沢山の名前を書いてくれましたが,それに加えて,「日本では大学の高等教育まで母国語で勉強することができる.しかし我々は高等教育を英語で教わらなければならない.日本が羨ましい」というようなことを言いました.その時,いささか誇らしい気持ちになりましたが,それから50年経ったら今や日本で大学の講義を英語にすべきだ.少なくとも英語での授業をふやすべきだ.という提言やべき論を聞きます.あるいは「大学ランキング10位までに香港は入っているが日本はない」などとも聞きます.この順位表は専門領域,年度により異なりますから,一つの数字にこだわる必要はないと思いますが,ともかくもっと英語を使えるようにしろということです.大学のランク付けをよく見るといわゆる英語Nativeの国の大学が上位に来ているのは一目瞭然です.ヨーロッパの大学でも50位以内に一国で複数大学があるのはフランスと後一つか二つでしょう.日本は専門領域にもよりますが科学領域では4校入っています(Academic Ranking of World Universities through web). 英語力が向上することは結構ですが,あまり神経質になることはないのではと思います.どうも少し脱線したようです.英語談話の最後に私にKaiserが言った言葉をご紹介します.

Kaiserの言

 2年4カ月ほど居たKaiser 研から帰国する際に,最後の御挨拶として,彼のオフィスを訪れた時の話です.型通りに最後の挨拶,わかれの言葉を交わした後で,彼が言いました.「youと最初に会った時には英語が上手く通じないので,これから先どうなるかと思った.しかし,2年の内にyouの英語は上手くなった.こうして二人だけで話し,意思が通じるようになり,本当に良かった.しかし依然としてまだ英語に欠点がある.それは単数複数と冠詞の使い分けだ」.

 初めの方の言葉は私には意外でした.結構英語で上手く行ってるではないかと思っていましたから.しかし現実の評価は厳しいものでした.やっぱり駄目だったのかと反省する以外にありません.しかし後の方の冠詞と単数複数については,十分自覚していました.これは現在に至るまでの悩みですが,これについては半ばあきらめています.これらの使い分けを適切にやりたいという気持ちもあるし,それなりに努力はしているつもりではありますが,所詮は無理と言う気持ちでいます.では何故か.

 こういう経験が理由です.ヒップという言葉があります.英語ではたいていの場合,hips と言ったり書いたりします.ちょっと露骨だなと思いますが,まさに単数複数を気にしない習慣とそれにこだわる習慣との差と理解します.別に民族性の違いとまで言う必要ないでしょう.要するに英語ではhipsを使うのだと理解していればいいのです.と思っていました.ところがある時,確か大学での講演会の時だったと思います.講堂のような場所で横並びの椅子席があり,各自適当に座っていました.そこへ一人が私の席の前を通り,奥の方へ入ろうとして来ました.たまたま私の横の人は足を組んでいたので,その人を通すために組んでいた足をほどこうとして,かえって通る人のお尻の片側を靴底でこするようなことが起こりました.その時,足を組んでいた人はこう言いました.Sorry, I hit your hip. それを聞いて私は「あれ,確かにhip と言ったぞ.片側だから単数なのか.とっさに単数,複数を使い分けるのか.とても英語ネイティヴのような使い分けはできないな」と思いました.当たり前かも知れませんが,まさに本能的に単数,複数を使い分けるのですから,とても駄目だと思ったわけです.

 今回念のために辞書で確かめました(ジーニアス英和大辞典).そこには

hip: 腰,腰回り しり(臀部だけでなく,腰の左右に張り出した部分の片方の意.そのため,しばしば~sとして両側を合わせていう.日本語の「しり」に最も近いのはbuttocks.

となっています.辞書の知識で解釈し直すと,片側をhitしたなら 一つのhip そのものをhitしたのだから,単数でしか表現できないことになります.単数,複数の問題なのではないことが理解できますが,日本語サイドで考えれば,そこまで対応した日本語がないということになります.いずれにせよ,単数複数あるいは日本語と英語の正確な対応は難しいということの例だと思います.

 冠詞の使いわけについては,こんな文章を読んだことがあります.帰国してから大分経ってのことですが,「覇者のおごり」という本を読んだ時です.この本については米国の自動車産業の没落を書いたノンフィクションの邦訳ですから,御存知の方もいるでしょうが,その中で,ある文書の作成もしくは承認時に,重役会で何時間も揉めた.有名大学を出たエリートが重要とは思えないことに無駄な時間を使っていた.負けるのも無理はない.というようなことを書いた箇所です.その揉めた対象が,冠詞の使い方だったか,助動詞の使い方だったか正確なことは記憶していませんが,要するに我々が英文を書くときに悩むようなことでした.これを読んで私は「何だ,俺たちと同じではないか.こういう人たちだって良く分からないのだ.冠詞や助動詞を正しく使おうなんて無理,無理」と思いました.勿論,実際は私などが悩むレベルを超えた高度な判断の問題だったのでしょうが,あきらめる口実にはなります.

 という訳で,Kaiserの私の英語に対する批評,忠告は正しいし,勿論改善に向けて努力はしているつもりだけれども,事実は「無理なことは無理ですよ」と心の中で今でも言いわけをしているのが偽りのないところです.

 科学をやる者にとっては,不満はあるけれども英語が必須となった現状では英語力を磨くのは避けられません.だからこそ,英語について言いたいことは沢山ありますがきりがありません.今後さらなる活躍をしたい方は出来るだけ英語力を身に付ける努力は惜しんではいけません.しかし同時に,真に重要なのはその英語力で何を書くか,何をしゃべるかであることです.ということで私の米国でのポスドク時代の話を終わらせます.以下次回